ベネズエラが生んだスーパーバンド、グアコ。そのサルサ、ファンク、ジャズ、ロックとアフロのリズムとが融合されたポップなサウンドは、ベネズエラのみならず国外の多くのファンを惹きつける、ラテンアメリカを代表するまさに「スーパーバンド」である。2015年にはラテングラミー賞2部門にノミネート、2016年グラミー賞にはアルバム「Presente Continuo」が「ベスト・トロピカルラテンアルバム部門」にノミネートされ結成から58年という長い月日を経ても未だ勢いは衰えない。
しかしながら、現在のサウンドに至るまでは幾度となる変革をとげてきた。グアコはどこから始まり、どのようにして今のサウンドを作り上げてきたのか。その変化を見ていこう。[1]
黎明期(1958~1968)[2]グアコの起源 民衆音楽としてのガイタ
グアコはベネズエラ第二の都市マラカイボの名門スリア大学の学生たちが集まって1958年に結成された。結成時の名前は「学生ガイタ楽団ロスグアコスデルスリア(Conjunto estudiantil gaitero los Guacos del Zulia)。奇妙な鳴き方をし、不吉の予兆とされる鳥「Guaco」から名付けられた。当時のグアコはスリア地方の6/8拍子と3/4拍子の複合拍子による民衆音楽《ガイタ・スリアーナ》伝統的な編成で演奏するバンドであった。(ガイタについての説明はこちら)
グアコ
wikipediaよりhttps://en.wikipedia.org/wiki/Laughing_falcon#/media/File:Lachfalke.jpg
Añoranza zuliano(1965)
(グアコの初期の作品。大太鼓“タンボーラ”のバチの弾く音と、低く鳴り響く摩擦太鼓“フーロ”、
高音で囃し立てる鉄製ギロ“チャラスカ”がメインの伝統的なガイタである。女性ボーカルの存在も光る)
A parrandear (1966)
(グアコによる伝統スタイルのガイタの賑やかなパーティソング。
チャラスカの音が光る軽やかなダンスミュージックである)
第1期 (1968~1977) ガイタの革新
伝統的なガイタ・スリアーナを演奏していたグアコに、ある衝撃が訪れる。ベネズエラのジャズの巨匠、アルデマロ・ロメロの提唱した《オンダヌエバ》の登場である(オンダヌエバについてはこちら)。アルマデロ・ロメロによるベネズエラの伝統音楽の革新は、グアコをたちまち虜にし、彼らは、自分たちの演奏していたガイタ・スリアーナにも新たな風を吹かそうと動きだす。
Gaita y onda(1971)
(男女混声のハーモニーとコーラスの掛け合い、4弦ギターのクアトロが生み出すスイング。
アルマデロの提唱したオンダヌエバの楽曲の影響を強く受けているのがわかる。しかしながら
タンボーラを中心とする型は伝統的なガイタだ!
ちなみにGaita y OndaもあればGaita Nueva https://www.youtube.com/watch?v=bL-cBldMrLMもある。)
この頃、これからのグアコの音楽性に大きな影響を与えたものがもう一つある。マラカイボ湖の対岸カビマスのガイタバンド、グラン・コキバコアが生み出した、《タンボレーラ》の登場である。このタンボレーラは、マラカイボ湖東岸から湖南にかけて分布する2/4拍子のガイタをラテンモダナイズしたもので、アフロ色の強い太鼓のリズムとサルサ風の編成がうまくミックスされた新しい音楽であった。
Tamborera9”San Benito” (1977, グランコキバコア)
(2/4拍子、アフロ色の強いタンボレーラはグアコの今後の音楽の重要な位置を占めるようになる)
この新しいリズムの音楽に出会ったグアコはさっそく自身の楽曲にタンボレーラを取り入れ始める。
そしてこれこそ、後のグアコの音楽性—伝統音楽とサルサのフュージョン—の始まりとなったのである。
Mi tamborera(1973)
(グアコによる2拍子のガイタ“タンボレーラ”の曲。最初のホーンによる派手な入りも、
サルサの要素も取り込んでいるのも、この短期間でグアコの楽曲に大きな変化が起きたと
いうことを示す曲だ。)
第2期 (1979~1985) 第1次黄金期
この時期のグアコは数々のヒットを生み出し、黄金時代を築き上げることとなる。この立役者こそ音楽監督兼座付き作者のリカルド・エルナンデスと1980年に加入した歌手アミルカル・ボスカンである。
このアミルカル・ボスカンの人気は絶大なものであった。この時期のヒットソングのほとんどのリードヴォーカルをこのアミルカル・ボスカンが担当している。愛嬌溢れるルックスと、よく通る、キザだがどこか親しみある声は多くのファンを生んだ。
アミルカル・ボスカン
http://portafoliomusicalcdv.blogspot.jp/2016/08/amilcar-boscan-realidades-1993.html
そしてリカルド・エルナンデスこそグアコの歴史の中で最も重要な音楽監督であった。ホーンやチャランガ隊のド派手かつ前衛的なフレージングで聞いたものはとにかく圧倒されるのだ。そして、石橋によると、「<前半ガイタ・スリアーナ、後半タンボレーラ、で、モントゥーノ付き>という様式」と「<最初から(テーマから)タンボレーラでいって、モントゥーノが付く>」「第2期のグアコのモントゥーノ付きの先っていうのは、必ず二段構えのマンボでまとめている」という、チャレンジングな様式[3]を生み出した張本人なのである。
左がリカルド・エルナンデス。右はグスタボ・アグアド
そして、このエルナンデスの技の極みとも言えるのが、この時期のヒット曲でもある「Un Cigarrito y un Café」だ。
Un cigarrito y un café(1984)
このリードヴォーカルこそアミルカル・ボスカンである。愛嬌のあるルックス。スターらしくカメラ目線は外さない。重厚なコーラスに支えられ、よく通る声で存在感を発揮する。そしてボスカンの左にいる人物がリカルド・エルナンデスである。このときグアコは総勢20人の大バンドであった。この曲はチャランガ、ド派手なホーン、前衛的なアレンジ、重厚なコーラスと黄金期を代表する音楽といって良い。
この映像をみてもらえばよく分かるが、この時のグアコはコンガ、ボンゴ、ドラムセット、ティンバルを加え[4]、サルサへの傾倒を強くさせて行く。
この他にもこの時期、リカルド・エルナンデス作曲による有名曲が多く生まれた。「Billetero」「Pastelero」「Cepillao」[5]「Noche sensacional」「Adios Miami」「Sentimiento Nacional」「Amor, Amor」などである。
Para ella (1982)
(「<前半ガイタ・スリアーナ、後半タンボレーラ、で、モントゥーノ付き>という様式」の曲の一つ。
最初は心地よいガイタかと思うのだが、、、)
こうしてグアコ第2期は、まさに黄金期と呼ぶにふさわしい、輝かしい時代を過ごした。
最高の歌手、最高の作曲家、それに支えられた新しい音楽への挑戦。最高の時代であったのだ。
続きグアコ第3期からはグアコ Ψ 2にて解説!!!
(文 田中)
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[1]2016年8月9日渋谷Li-Po「勝手にグアコ祭りfeaturingセシリア・トッド」、2016年9月24日 新宿カフェ・ラバンデリア「勝手にグアコ祭りVol.2~グアコで踊れ!」での、石橋純、高橋めぐみによるトーク及び、石橋作成のレジュメを母体としている。また上記イベントの報告であるwebサイト
eLPop 「勝手にグアコ祭りfeaturingセシリア・トッド ご報告!」http://elpop.jp/article/176955638.html から内容を抽出しており、このサイトにはグアコとその音楽に関する記述がより詳細になされているため、こちらのサイトも参照してほしい。
[3] eLPop 「勝手にグアコ祭りfeaturingセシリア・トッド ご報告!(後半)よりhttp://elpop.jp/article/176964246.html
[4] サルサバンドでティンバルとドラムスを独立させた編成をしたのはグアコが初めてと言われる。以下のサイト参照。eLPop 「勝手にグアコ祭りfeaturingセシリア・トッド ご報告!(後半)」よりhttp://elpop.jp/article/176964246.html
[5] 和訳すると「宝くじ屋」「揚げパン屋」「かき氷」である。その他にも「Zapatero(靴屋)」「Reportero(報道記者)」なんてものもある。なぜこんな変な名前が付けられているのか大変興味深いが、この理由を石橋が解説している。上述のeLPopのページを参照。
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