8月22日から24日にかけて東京都青梅市御岳山、山楽荘にて今年で第三回となるEK合宿が行われました。合宿では新人を中心に各メンバーが新しいレパートリーを練習し、2日目の夜に発表会を行いました。また、それだけではなく、昨年もお世話になった山楽荘さんの素晴らしい食事、3日目朝には昨年からEK合宿恒例行事となりつつある滝行、3日目昼には南米流のバーベキューを楽しみました。以下、EKメンバーによる報告レポートをお届けします。

3ヶ月目のArpista

 8月22日から24日までの3日間、Estudiantina Komaba、通称EKの合宿が行われました。場所は御岳山上の宿。都内なのに駒場から3,4時間かかった、知る人ぞ知るごはんの美味しいお宿です。夜中まで楽器を鳴らして騒いだり、いろいろなものを借りたりするのを快く許してくださった宿の方、本当にありがとうございます。

 ところで、私はアルパという楽器を弾いています。多くの人にとっては耳慣れない名前でしょう。では、ハープと言ったらイメージしやすいでしょうか。アルパとは、ラテンアメリカの民族音楽や大衆音楽に用いられるハープを指します。最も盛んに演奏されているのはパラグアイハープですが、私が弾くのはベネズエラハープです。といっても、私がこのアルパを弾き始めたのは3カ月ほど前の話で、腕もまだまだです。なので、アルパを少しでも上達させたいという目標を胸に、私はこの合宿に参加しました。
camp_14_0

 今回の合宿で私に課題として与えられた曲は”Concierto en la llanura”、日本語では「平原のコンチェルト」といいます。作曲は成果コンで弾いた”Campesina”と同じJuan Vicente Torrealbaさん。この方にはお世話になりっぱなしな気がします(もちろん面識はありませんが)。合宿では2日目の夜に発表会が企画されています。参加者はそれをひとまずの目標として各々に与えられた課題曲を練習します。ですが、アルパ歴3カ月の私が2日で1曲を弾けるようになるわけがありません。そこで、合宿前に3回ほど研究室に行き、石橋さんの指導のもとある程度の練習をしておきました。その甲斐もあってか、合宿ではひたすら反復練習に打ち込むことができました。

 さて、運命の発表会です。一緒に弾くのは石橋さんとEKの先輩。聴衆もEKの同期と先輩方。成果コン以上の緊張を感じます。いよいよ演奏が始まって、イントロが終わって、本編を弾き始めて、いつも失敗するあの部分にさしかかって――――。気付いたら演奏は終わっていました。正直私の演奏は拙かったです。課題もまだまだあります。ですが、一緒に弾いた三方の演奏に引っ張られて、なんとか形にすることはできました。あたたかい拍手ももらえました。自分の演奏とは別の部分で、ある種の満足感を感じています。

camp_14_1

 この合宿を通しての私の変化といえば、ベネズエラ音楽に対する意欲が高まったことでしょうか。今までは与えられた曲を弾くだけでしたが、自分から知りたいと思うようになりました。この合宿を企画、実行してくださった先輩方、私の拙い演奏に付き合ってくださった先輩方、そして初めての試みである学生によるアルパの演奏のために尽力してくださった石橋さん、本当にありがとうございます。駒場祭ではクオリティの上がった演奏を披露できるよう、努力します。

K. H.

Como un cantante――アギナルドの歌い手として

 今回の合宿、私はEKにとって新曲である”Al Niño Jesús Llanero”の歌手を担当しました。”Al Niño Jesús Llanero”はSímon Díaz(シモン・ディアス)による、アギナルド(ベネズエラの伝統的なクリスマスソング)というジャンルの曲です。Símon Díazは現代ベネズエラを代表する音楽家のひとりですが、今年の2月に亡くなりました。今年はEKにとっては「Símon Díaz追悼イヤー」にあたり、「Al Niño Jesús Llanero」はその一角をなす曲となっています。クリスマスシーズンが近づくということもあり、EK合宿ではガイタやアギナルドといったクリスマスソングを多く練習し、またその後の活動でも演奏する機会が多くあるため、これらの曲の歌手をやるといこと自体責任が重大なのですが、曲と作者をめぐるこうした事情から責任はより重大です。また、EKで歌手をすること自体も私にとっては初めてのことで、今回合宿でこの曲の歌手を担当することは私個人的にも、今年で2年目となる、自分にとってのEK活動のあり方を考えさせられるきっかけにもなりました。

 EKでは歌詞の意味を理解したうえで歌うこと、また発音の面でも「伝わる歌」を歌うことを重視しています。そのため、合宿の前に歌詞の内容を確認したうえで合宿にのぞみ、また歌手の練習はスペイン語歌詞の音読から始まります。歌詞を石橋先生の正しい指導の下音読を行うだけでも抑揚のつけ方など多くの発見がありました。その後、歌唱の練習に入るのですが、最も苦戦した(今もしている)のは5拍子のリズムです。主として4拍子の音楽に囲まれて育った私(たち)にとっては5拍子のリズムはすぐに1拍目を見失ってしまい、そこに歌詞をのせて歌おうとすると簡単に歌がずれていってしまいます。練習の中で歌詞とそれぞれの拍数を理解し、そのうえで歌い込みを行いますが、なかなか容易にはいきません。ただ、なんとなく少しずつベネズエラ音楽のリズムが身体に浸透してくる感覚は味わうことができました。

 2日目の夜に行われた演奏発表会では、まわりのメンバーのサポートもあり何とか歌いきることができましたが、まだまだ練習不足の感が否めません。合宿にて学んだことをもとに今後も繰り返し練習し、今後の演奏活動で皆様に披露できればと思います。私の現状として、最近では自宅でシャワーを浴びながら気が付くと5拍子のリズムにあわせて体をゆらしながら”Al Niño Jesús Llanero”の鼻歌を歌っていることが少なくないということを報告させていただき、ひとまず本報告の締めとしたいと思います。 

F. K.

「山路を登りながら、こう考えた。

 御岳山、山楽荘、神棚の部屋。登りついて最初に集まり、毎食ともにし、朝夕練習を合わせ、この合宿の収穫を祝い杯を酌み交わしまたもや歌い踊った場所。神の御前にふたたび集まる。宴の余韻があたまとからだに残るが、皆が神を前にして並び礼をする。御祓いもうける。このときから心もちは別である。

camp_14_2

 朝にならないうちに山楽荘を出る。後ろを振り返ってはならない。声を出してはいけない。ひたすらに足元をみながら歩を進め、他人の足音、頬に触れる空気、じわりとにじむ汗、背負う籠、醒めきらない頭、これらがすべての感覚である。手と口を清めて鳥居の先に、鳥も鳴かない山を登る。一歩先の足場を探り、皆の足音を聞くので精いっぱいだ。

camp_14_3

 やがて目的の滝にたどり着く。何百年かは立っているであろう巨大な木と崖の奥に滝は落ちている。ようやく落ちる水の視覚と聴覚を得る。男女ともどもしかるべき白装束を身につけ、いよいよ滝業をはじめる。

 滝業は滝に打たれるのみにあらず、「感謝」のこころが重要だという。また、要する時間の上でも、要する効果の上でも、水に打たれる前後が肝であろう。具体的な作法は、読者自らが体験すべし。滝に打たれる者たちは、それまで控えていた声を張り上げ、体を存分に動かし、天空の船を漕ぐ。神を呼ぶ作法もある。あとはだいたい忘れてしまったが、自分やお互いの健康や境遇や運命が、いまそのようにあることを感謝しなくてはならない。また、山や滝や森がしかじかであることにも感謝しなくてはならない。

camp_14_4

 ともあれようやく滝に打たれる。神主さまは水は「熱い」というが、ちゃぷちゃぷ行水をしてみてもいっこうに冷たいままである。順番が来たのでしかたなくエイと手刀で悪霊を切ったのち滝に飛び込むとなるほど温かいような気がするが、厳密にいえば、冷たいとも温かいとも考えられず、必死の思いでハラエドノオカミと組んだ手にまかせて連唱していた。満足したあたりで再度手刀をきり、外に出る。これを三度繰り返す。

 そうしてまた空の船を漕いで、それぞれに礼をする。これを怠ってはいけない。

 また同じ道を帰る。しかし、見える景色は全く違う。日ものぼっている。足元ばかりを見なくてもよくて、あたりを観察できる。おしゃべりをしてもよい。余所の人も行きかっている。文字通りに別の世界がみえるようだった。これは嘘ではない。見える景色の違い、しかもよっぽど素晴らしい景色に驚いたのだった。

camp_14_5

 以下は感想である。神主さまが考えるところとは違うかもしれない。

 滝に打たれたからといって、わたしの運命が変わるわけではない。これまでの過去が清算されるわけではない。なにが変わるかというと、じぶんの「気」のありかたである。少なくとも自らの「気」が、本来的にはこうも変化しうるものだということが体験できる。すなわち普段の「気」がどれほど錆びついているのかと思う。

 滝ではらわれるのは、ケガレ、すなわち「気枯れ」である。空気の淀んだ世間のなかで、すっかり枯れてしまった「気」。この「気」は、鈍くなって、感受性がなくなる。無感動になって、「ありがたい」と驚くことを忘れてしまう。「在るものがそのように在ること」の「ありがたさ」を認知できない。

 一連の儀礼とともに滝に打たれることで、この「気」は瑞々しさをえる。無感動はやめて、小さなものごとに驚き、その「ありがたさ」を覚えるようになる。わたしが感じたような景色の変化は、まったくこのおかげであろう。滝業で「感謝」の心構えが目的であることに適っている。

 さらに考えるに、この「無感動/感動」の構造を最大限に表現しているのが「夜空け前/朝」の山の変化である。夜明け前に山に出た滝業者はこの構造を無意識に体験し、わたしのように「気」の再生を感じるのだ。つまり、夜明け前、未覚醒であるうえに、山は静かで、そもそも暗闇である。自ずと「無感動」の状態である。しかし帰り道は、滝に打たれた上に、自分の意識が目覚めているのみならず、山も動物も人も動き出す。したがって歩くだけで感受するものが多く、「感動」してしまう。

 夜明け前に出て、滝に打たれ、朝帰路につく滝業者は、感覚されるものの増加に強制的にさらされる。これは、滝業で目指された「無感動→感動」を仕込んだトリックである。日の出前後の山歩きという行程そのものによって、「ありがたさ」の驚きを体験するのだ。

 とにかくも、わたしは自らの「気」の変化、伴って変化する景色、これに感動する「気」、そしていまある世界への感謝、こうしたものを得て帰ったのである。山路を歩き、「兎角に人の世は住みにくい。」のは「気」が滅入っているだけだと思った。夏目漱石『草枕』によれば「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。」のだ。「ありがたい世界」をまのあたりに見るのは、活き活きとした「気」ではあるまいか。

 今回での滝業経験者は、それぞれ違ったことを感じ、考えたに違いない。この事実が少なくとも、「気枯れ」の回復を意味するのではないか。たとえ、「水が冷たかった」という感想のみでも、その感覚に見合ったぶんだけ気が潤滑に動いて、からだが反応したことだろう。このような「感動」によって「気の枯れ」を祓う、滝業。ぜひ読者の皆さんも体験してみてほしいい。夏ならわたしのような素人でも大丈夫だから。

camp_14_6

大渕久志

南米流本格焼肉の宴

 EK合宿において演奏活動に負けず劣らず重要なのが、3日目の最終日におこなわれるバーベキューです。バーベキューという日本語につきまとう軟弱(?)な印象と一線を画すためには南米流本格焼肉の宴という語が適当かもしれません。というのも、EKにおけるバーベキューとは、EKを率いる文化人類学者石橋純の指導のもと本格的な南米流肉料理を調理・堪能する場であるからです。もちろん、バーベキューには音楽も欠かすことはできず、楽器をバーベキュー場にもちこみ、各自レパートリーを演奏します。

camp_14_bbq_1
camp_14_bbq_2camp_14_bbq_3

 今回、バーベキューを行ったのは奥多摩の川井キャンプ場です。都心から2時間とかからない場所であることが信じられない素晴らしい自然に包まれた河原にある、素晴らしいバーベキュー場で、多くの人でにぎわっています。また当日は真夏にも関わらず、暑すぎることもなくバーベキューを行うにはちょうど良い気候でした。バーベキューの主なメニューは枝豆、ピザ、そして南米流焼肉で、EKメンバー全員でこれらの準備を行います。肉に直接かかわるのは石橋純を中心とした厳選されたメンバーのみで、綿密な管理のもと肉を焼きあげていくのですが、今回は新人も数名が肉の焼き方、切り方の伝授を受け、確実に南米の流儀を継承していました。新人は初めて経験する、塩味だけで味付けされた噛みしめるほどに味が出てくる南米流焼肉の味を堪能していましたが、ベテランはそれに満足せずより良い焼き加減を目指して試行錯誤を繰り返します。また宴会もたけなわになると演奏にも熱が入り、河原全体を演奏してまわる光景も見られました。

camp_14_bbq_4camp_14_bbq_5

 バーベキューが終わるとバスに乗り込み、帰路についたのですが、帰りの車内ではバーベキューの反省会が早くも行われていました。来年の合宿、バーベキューが今から楽しみです。

F. K.